社内で増える“気づかれにくい健康問題”

ハイブリッド勤務が定着し、場所や時間にとらわれず働ける環境が広がる一方で、体調不良やメンタル不調を抱えながらも業務を続けている従業員が増えています。こうした状態は「プレゼンティーイズム(疾病就業)」と呼ばれ、欠勤や休職のように明確な“見え方”はないものの、本人は「集中できない」「本来の力が出せていない」といった感覚を強く抱いています。
産業医科大学の分担研究(2015 年)の試算によれば、調査対象事業所では プレゼンティーイズムによる損失額(6,392 万円)が疾病休業損失(2,255 万円)の約 2.8 倍 に上りました。出勤していても集中できず成果が出にくい状態が、欠勤以上に企業コストを押し上げている実態が浮き彫りになっています。※1。慢性的な頭痛や腰痛などが生産性に与える影響は大きく、海外研究ではそうした症状を持つ従業員の生産性が、健康な社員に比べて1週あたり3〜5時間低下していたという報告もあります※2。 このように、プレゼンティーイズムは「出勤しているのに成果が出づらい」という状態であり、企業にとって数値化しづらく、対策が後手に回りやすい課題となっています。
健康と経営指標はどこでつながるのか

健康は「従業員個人の自己管理」ではなく、企業価値を構成する資産として再定義されつつあります。経済産業省の健康経営度調査では、日経平均 225 採用企業の約 7 割が、経済産業省の健康経営度調査結果を対外開示し、健康関連投資を経営戦略に組み込んでいます※3。
海外の調査では、ウェルビーイング施策を戦略的に導入した組織は、導入前と比べて 従業員 1 人当たりの収益が 11 % 向上し、欠勤が年間 1.8 日減少、株主リターンが 28 % 増加 したと報告されています※4。
このように、従業員の健康状態は、金融市場が企業を評価する際の新たな物差しになりつつあるのです。
数字で語れる人事へ~データドリブンの第一歩
企業には健診結果、ストレスチェック、勤怠、産業医面談記録など多様な情報が蓄積しています。これらを統合し、職種や年齢層、部署単位で俯瞰すれば、施策の優先度が自ずと浮かび上がります。たとえば月次残業時間とストレス反応をクロス集計するだけでも、同じ労働時間でも部署ごとに負荷の感じ方が異なる実態を把握できます。
さらにプレゼンティーイズムの損失額をシミュレーションし、改善による“回収可能コスト”を定量化すれば、経営層からの投資判断も得やすくなります。「データ → 仮説 → アクション → 検証」という循環を回せば、人事部門は“守りのコストセンター”から“攻めの価値創造部門”へと進化できます。

組織全体で取り組む健康マネジメント
健康施策を労務管理の枠にとどめず経営課題として再定義するには、①経営層のコミットメント、②部門横断の推進体制、③データに基づくPDCAの3点が欠かせません。特に②では、人事・総務などの従業員の健康を推進する部門が中心となり、産業医、安全衛生委員会、DX担当等が一体で進めることで、流れがスムーズになります。
健康情報を組織的に整理・活用できる仕組みがあれば、複数データの集計やレポート共有が容易になり、これらを現場管理職に展開することで、健康施策の“自分事化”も進みます。結果としてバラバラだった取り組みが一本の矢として経営のKPIに直結するのです。
プレゼンティーイズム削減は“攻め”の投資

RAND Europe のクロスカントリー分析では、睡眠不足による労働生産性損失が GDP の 約 2 % に相当すると推計されています※5。裏を返せば、定期的な健康教育の実施、働き方の見直し、作業環境の改善といった比較的低コストの施策でも大きなリターンが期待できます。
さらに、こうした取り組みは従業員の主観的な幸福感や職務満足感といったウェルビーイングの向上にもつながり、結果として組織全体の一体感や定着率の向上といった好循環も期待できます。 健康経営の主戦場は“守り”から“攻め”へ――従業員体験(EX)を高める施策としても注目されています。
健康投資を取り巻く国内外の潮流
また、ESG投資やサステナビリティ報告の流れの中で、健康関連指標を定量的に示すことが投資家との対話の前提条件になっています。米 SEC は 2020 年の Regulation S-K 改正で人的資本開示を義務づけ※6、さらに今後、健康・安全など定量指標を含む詳細な開示を求めるルール案の提出を予定しています。国内でも2025年3月期以降、有価証券報告書にサステナビリティ欄が新設され、健康・安全を含む人的資本 KPI の開示が拡充されていきます。
今後はプレゼンティーイズムや労働災害率などの指標を開示する企業が増えると見込まれます。“健康”は財務諸表に載らない最大の無形資産であり、数字を持たない企業は説明責任を果たせなくなる時代が迫っています。
まとめ~“健康”は組織の未来をつくる
健康経営は「法令順守」や「福利厚生」の枠を越え、人的資本経営の要として企業価値を形づくるテーマになりました。プレゼンティーイズムという気づかれにくい損失をいかに減らし、可視化したデータを経営判断に組み込むか――いまこそ“人への投資”を戦略に昇華させるタイミングです。健康経営は“やるべき施策”ではなく、“やらなければ取り残される施策”になりつつあります。
参考文献・出典一覧
- 厚生労働科学研究費補助金分担研究報告「疾病による生産性低下と損失に関する分担」(2015 年)
https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/2015/154021/201521006B_upload/201521006B0012.pdf ↩︎ - Stewart WF, Ricci JA, Chee E, Morganstein D, Lipton R. “Lost productive time and cost due to common pain conditions in the US workforce.” JAMA. 2003;290(18):2443-2454.
https://jamanetwork.com/journals/jama/fullarticle/198847 ↩︎ - 経済産業省「健康経営度調査結果」(2023年度)https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/kenko_keiei.html ↩︎
- Sun Life Financial. “A Strategic Dose of Wellness—Insights from the 2011 Buffett National Wellness Survey.” 2012, p.2.
https://www.sunlife.ca/static/canada/…/1748-03-12-e.pdf. ↩︎ - Hafner M, Stepanek M, Taylor J, Troxel WM, Van Stolk C.“Why Sleep Matters — The Economic Costs of Insufficient Sleep.” RAND Corporation; 2016.
https://www.rand.org/pubs/research_reports/RR1791.html ↩︎ - Securities and Exchange Commission, Release No. 33-10825
https://www.sec.gov/files/rules/final/2020/33-10825.pdf ↩︎
”「健康経営®」は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。”
執筆:日本生産性本部 ICT・ヘルスケア推進部 メンタルヘルス研究所